鎌倉の古道、朝夷奈切通し散策で出会った源流の物語|自然がくれる気づきと学び
先日、上部頸椎カイロプラクターの先輩と鎌倉へハイキングへ出掛けた時の話。
その鎌倉のはずれにある古道には、時間をかけて静かに流れ続ける小川があった。
地形に沿って右へ左へと揺れ動き、時に深く、時に浅く。

緩やかに、時には勢いよく、上流からの水をただひたすら運び続け、地面にその痕を残している。その自然が作るリズムにしばらく見入ってしまった。


せっかくなら、この流れの『源流』を見たい。
そう思い、さらに上を目指した。
歩く道は数百年前につくられた古道。そこに込められた歴史に思いを馳せていると、ふと、左にあった流れがいつの間にか右側に移っていることに気づく。
戻って確認すると、道の下で水がトンネルを通り抜け、方向を変えていた。

「こんな素敵な場所なら、昔からの自然の姿がそのまま残っているはずだ」
そう決めつけていた自分に、思わず苦笑い。
しっかり人の手が入っていたのだ。
さらに歩みを進めると、今度は道の上で自然の高低差によって流れが右から左へ移った。
地面はぬかるみ、今度こそ『本物の香り』がする。

さらにその奥にある茂みからは、滝のような音まで聞こえてくる。
期待に胸を膨らませて音の正体を見に行くと、現れたのは斜面から顔を出した土管。
再び期待は裏切られたが、その事実がまた面白い。
どうやら源流の水に、どこか別の水も合流してるようだ。
そこでふと、自分の大切にしているものごとに思いを重ねてみた。
もし、道の下に隠された土管を見ずに歩みを止めていたら、この流れを『手つかずの歴史と自然』と信じて疑わなかっただろう。
もし、さらなる合流点を知らずにいたら、混ざっている“何か”の存在にも気づけなかっただろう。
そしてもし、自分の目で確かめることなく、誰かの言葉だけで「これは純粋な自然の流れだ」と信じ込んでいたら、それが“真実”になっていたはずだ。
どの地点で足を止めるか。
それによって、その人の世界のベースは形づくられる。
そうしたことを考えながら歩き続けると、やがて流れが途切れ、ついに混ざり物のない、純粋な『源流』にたどりついた!
この滴る一滴一滴が集まって、最終的に大きな流れになる。
その神秘的な様子に目を奪われていた。

しかし「これが源流だ」と思ったのも束の間、その水もまた雨が滲み込み、蒸気となり、海へ戻り…と、果てしない循環の一部にすぎないことを思い出す。
間違いなく言えることは、『源流は自然』ということ。ただそれだけ。
何に感動し、何に『源流』の意味を見出すか。
源流を辿ることも、自然の仕組みを紐解くことも、その経過を知る事も、どれも面白い。
そして、一つの視点にとどまらず、その裏側まで考えてみようとする過程が思考を深めてくれる。
歩いてきた道を振り返ると、そこには登ってきた素晴らしい景色が広がる。

何も間違ってはいない。
ただ、どこで理解するかだけの話だ。
古道を散策しただけなのに、こんなことを考えてしまう自分だから、上部頸椎カイロが好きなのだろう。


また鎌倉へ、自然と上部頸椎カイロプラクティックを感じに来ようと思う!

